テニスの歴史と四大大会

テニス

はじめに

テニスの日本への伝来、その後の発展などに触れ、四台大会について詳しく説明します。

テニスの歴史

日本にどう伝来したか

テニスは明治初期の1874年頃、横浜や神戸などの外国人居留地に持ち込まれたときに日本に

紹介されました。横浜山手公園のテニスコートの入り口には、「日本庭園球発祥の地」のモニュメントがあります。しかし、すぐには実際には全国に広がっていません。対照的に、ゴムボールを使用した軟式テニス(現在のソフトテニス)は、1890年頃に日本で発明され、すぐに全国の学校に普及しました。

日本でのテニスの発展

テニスの体系的な活動は、国内テニスを管理する日本庭球協会(現・財団法人日本テニス協会)が設立された1922年に始まりました。同年、全日本選手権は男子から始まり、競技スポーツとして大きく発展していきます。

錦織選手の活躍

日本テニスの歴史を語る上で外せないのが、錦織圭選手です。

錦織圭(1989年12月29日)は、島根県松江市出身のプロテニス選手です。彼は日清食品に所属しています。松江市立乃木小学校、開星中学校、青森山田高等学校を卒業。彼の身長は178cm、体重は73kgです。彼は右利きで、両手バックハンドです。

ATP(Professional Tennis Association)は、世界最高ランクのシングルスを4位(アジアの男子史上最高)、ダブルスを167位と発表しました。彼は日本の男子史上初のシングルスプレーヤーであり、世界のトップ10ランキングに入っています。彼は、2014年の全米オープンで男子シングルスの準優勝者であり、アジアの男子シングルスグランドスラム(四大大会)で最初のシングルスファイナリストでした。彼はまた、ATPワールドツアーファイナルズに参加したアジアの男子史上初のシングルスプレーヤーです。彼はATPマスターズ1000のグランドスラムに次ぐ2位であり、4回2位にランクされています。

わずか18歳で、2008年デルレイビーチ国際テニス選手権で優勝し、松岡修造に次ぐ日本男子史上2番目のATPツアーシングルスチャンピオンになりました。彼は日本史上最も多いATPツアーで12シングルを獲得し、ダブルスで1位を獲得しています。

2016年、リオデジャネイロ五輪男子シングルスで銅メダリスト、テニスシングルスで男女通じて日本人2人目となり、熊谷一弥後96年ぶりにメダルを獲得。彼はまた、オリンピック3大会連続ベスト8進出も達成しました。

四大大会

四大大会とは

プロのテニスプレーヤーは、賞金を獲得するために多くの大会に参加しています。賞金はトーナメントによって異なります。多くのイベントの中で、トップランクのイベントは四大大会です。

四大大会は、国際テニス連盟によって設立され、1月から8月まで、各国で4つの試合が開催されます。

全豪オープン

全豪オープンは、その年にオーストラリアで開催される最初のテニスイベントです。全豪オープンは100年以上の歴史を持つ伝統的なイベントです。オーストラリアで開催されているためヨーロッパからの選手が多いテニス界では、時差調整や気候差により強い選手でも排除されることも珍しくなく、混乱しやすいイベントでも有名です。

・全仏オープン、独特のコートを持っています

全仏オープンは、四大大会の中で最も特徴的なものです。全仏オープンは全豪オープンに続いて5月に開催され、その名の通りフランスで開催されます。全仏オープンでは、他のテニスの試合のようなハードコートがメインではなく、通常のコートとは全く弾力性が違う粘土で作られたクレイコートで行われます。錦織選手が得意とするスタジアムでもあります。

ウィンブルドン

最も有名な世界テニス選手権は、イギリスのウィンブルドン選手権です。イギリスでのこのイベントは1800年代後半から開催されており、非常に尊敬されているイベントです。したがって、優勝賞金は約3億円の大規模なトーナメントです。

ウィンブルドン選手権には長い歴史を持つルールがあります。もちろん、英国で最大の伝統的なスポーツイベントであるため、おそらくみなさんご存知でしょう。ルールは、ウィンブルドンに参加するプレーヤーは白い服を着なければならないということです。これは、最初の勝者の服がすべて白いためだったからです。それ以来、白い服は競技会では着なければなりません。

全米オープン

全米オープンは、四大大会の最後の試合です。試合の会場はもちろんアメリカです。他の大会と同様に、この大会には1800年代後半から長い歴史と伝統があります。この試合は、米国の真夏を舞台にしているので非常に高温のために多くのプレーヤーが棄権することでも有名です。

グランドスラムとは

国際テニス連盟が定めたこの四大大会にすべて優勝すると年間グランドスラムになります。このグランドスラムはコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来します。

世界的プレイヤー

ロジャー・フェデラー

ジャー・フェデラーは、スイス出身選手。身長185cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。芝コートでは無類の強さを誇り、ツアー通算歴代最多111勝。グランドスラム優勝回数歴代1位タイ20勝。1世紀を超えるテニス史で築かれた数々の記録を塗り替えてきたことから、史上最強のテニスプレーヤーとの呼び声も高い。

スイス代表としても功績を残しており、2001年・2018年・2019年ホップマンカップで優勝、2008年北京五輪・男子ダブル金メダル、2012年ロンドン五輪・男子シングルス銀メダル、2014年デビスカップ優勝に貢献した。

テニス界において絶大なる人気を誇り、スポーツ界全体でも名実共に最高クラスの評価を受けている。

ラファエル・ナダル

ラファエル・ナダル・パレラは、スペイン出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス88勝・ダブルス11勝を挙げる。身長185cm・体重85kg。

グランドスラム優勝回数歴代1位タイ(20回)、史上7人目となるキャリア・グランドスラム達成者、全仏オープン最多連勝記録・最多5連覇含む13回優勝、オープン化以降最多のGS同一大会13回優勝、史上2人目となるキャリアゴールデンスラム史上最年少の24歳3か月で達成、2010年にはオープン化では5人目となる4大大会3冠達成、マスターズ1000では歴代1位タイとなる36回の優勝記録を保持するテニス史上屈指の選手。

また、トップ10連続在位の歴代最長記録を保持しており(2020年11月9日時点で790週)、トップ選手としての活躍期間も史上屈指である。

特にクレーコートに非常に強いことで知られ、「クレー・キング」と称される。実際、クレーコート最高勝率、クレーコート81連勝、クレーコート50セット連続奪取、クレー大会である全仏オープン、モンテカルロ・マスターズ、マドリード・オープン、ローマ・マスターズ、バルセロナ・オープンの最多優勝記録・最長連覇記録などの数々の記録を更新している。

北京五輪シングルス・リオデジャネイロ五輪ダブルス金メダリストで、デビスカップスペイン代表5度の優勝に貢献している。

ノバク・ジョコビッチ

ノバク・ジョコビッチは、セルビア出身の男子プロテニス選手。 ATPランキング自己最高位はシングルス1位、ダブルス114位。ATPツアーでシングルス85勝、ダブルス1勝。身長188cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。愛称はノール(Nole)。

グランドスラムは歴代1位タイの優勝20回。ダブルキャリア・グランドスラム達成者。キャリアゴールデンマスターズ達成者。全豪オープン最多・最多連覇の3連覇、9回優勝。ATPファイナルズを4連覇含む5回の優勝。ATPマスターズ1000では歴代最多優勝36回。2011年にはオープン化以降男子6人目となる4大大会3冠達成。2015年には史上初のATPマスターズ1000年間6勝、2度目の4大大会3冠を達成。男子史上3人目となるグランドスラム4大会連続優勝。

世界ランキング1位通算在位は歴代1位の337週、2014年7月7日から2016年11月6日まで1位に連続在位(122週・歴代4位記録)。セルビア人初のグランドスラム優勝者でデビスカップ2010のセルビア代表の優勝に貢献。

ピーター・”ピート”・サンプラス

ピーター・”ピート”・サンプラスは、アメリカ出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランクは1位でありテニス史上に残る名選手である。

4大大会優勝数14回はロイ・エマーソンを抜き当時歴代1位記録(現在歴代4位)。ウィンブルドン優勝7回は歴代2位タイ記録、全米オープン優勝5回はオープン化以降歴代1位タイ記録。1993年から1998年まで年間最終ランキング1位6年連続は歴代1位記録。

ロイ・エマーソン

ロイ・エマーソンは、オーストラリア出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大会男子シングルス通算12勝・男子ダブルス16勝を挙げ、総計「28」のグランドスラム・タイトルを獲得した名選手である。グランドスラム優勝12回は2000年にピート・サンプラスが更新するまで33年間歴代1位記録だった。フルネームは Roy Stanley Emerson (ロイ・スタンレー・エマーソン)。“Emmo”(エンモ)という愛称で呼ばれた。エマーソンは豪放洒脱な人柄で、私生活では有名な大酒飲みだったという。

マーガレット・スミス・コート

マーガレット・スミス・コートは、オーストラリア出身の女子テニス選手。自己最高ランキングは1位。

1970年にオープン化以降女子初となる年間グランドスラムを達成した選手で、4大大会優勝記録で女子歴代1位の「24勝」を樹立した。

4大大会ではダブルスで19回、混合ダブルスで21回の優勝があり合計64タイトルは歴代1記録である。また混合ダブルス初の年間グランドスラムを達成しており2回の達成は史上唯一。

旧姓は「マーガレット・スミス」(Margaret Smith)であるが、バリー・コート(Barry Court)との結婚後、両方の姓を併用して「マーガレット・スミス・コート」夫人と名乗った。日本ではコート夫人と呼ばれることが多い。

セリーナ・ジャメカ・ウィリアムズ

セリーナ・ジャメカ・ウィリアムズは、アメリカ出身の女子プロテニス選手。身長175cm、右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでシングルス73勝、ダブルス23勝を挙げている。無類の強さで圧倒的な成績を残してきたことから、史上最強の女子テニスプレーヤーとも称される。

自己最高世界ランキングはシングルス・ダブルス共に1位。2013年2月に31歳4ヶ月24日で世界ランキング1位に復帰したことにより、WTA歴代最年長のナンバーワンプレイヤーとなり、2017年1月に再度1位に復帰した。

男女を通じてシングルス・ダブルスともに「キャリア・ゴールデンスラム」を達成した唯一の選手である。姉ビーナス・ウィリアムズとともに、女子テニス界にパワーテニスを持ち込んだ選手として知られる。この姉妹は、特に有色人種の子供から憧れの存在として人気を博している。

生涯獲得賞金は8000万ドルを超え、すべての女子プロスポーツ選手を含めて史上1位。また、フォーブス調べの総収入においても2016年から19年までの4年間で女子アスリートのトップ君臨するなど、市場価値の高い選手でもある。

グランドスラム合計優勝回数(39回)は男女通して現役1位・歴代3位、シングルス優勝回数(23回)は歴代2位、オープン化以降では歴代1位。ビーナス・ウィリアムズと組んだ優勝回数はチーム歴代3位。

2002年から2003年及び2014年から2015年に史上5人目のグランドスラム4大会連続優勝達成。またダブルスでも2009年から2010年にかけて達成している。

シュテフィ・グラフ

シュテフィ・グラフは、旧西ドイツ出身の女子プロテニス選手。本名は「シュテファニー・マリーア・グラーフ」(Stefanie Maria Graf)。

卓越したフットワークに加え、力強いフラット系のフォアハンドとよく滑るバックハンド・スライスを武器に、ボリス・ベッカーと、ドイツテニス界の黄金時代を築いたスター選手である。WTAツアーで女子歴代3位のシングルス107勝、ダブルス11勝。女子国別対抗戦・フェドカップ(旧名称「フェデレーション・カップ」)の西ドイツ代表としても2度の優勝を飾っている。

グランドスラムでは女子歴代3位・オープン化以降2位となる22勝を挙げた。世界ランキング1位の在位記録は通算「377週」で、これは男女を通じての史上最長記録である。また、年間ゴールデンスラムを達成した史上唯一のテニスプレーヤーでもある。

現役引退後の2001年10月22日にアンドレ・アガシと結婚、2児とともにアメリカ・ラスベガス在住。2004年に7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした。

ヘレン・ウィルス・ムーディ

ヘレン・ウィルス・ムーディは、アメリカ出身の女子テニス選手。同国が生んだ最大の女子テニス選手のひとりである。1920-30年代にかけて活躍し、4大大会で優勝31回内シングルス「19勝」(女子歴代4位)を挙げた。アメリカ人出身の女子初の国際的名声を得たアスリートと言われる。

生まれた時は「ヘレン・ニューイングトン・ウィルス」(Helen Newington Wills)という名前であったが、選手時代の1929年12月にフレデリック・ムーディと結婚したことから「ヘレン・ウィルス・ムーディ」の名で最も広く知られるようになった。(ムーディとは1937年に離婚し、1939年10月にエイダン・ロークと再婚した後は「ウィルス・ローク」姓を名乗った。)試合中に表情を全く顔に出さないことから、“Little Miss Poker Face”(リトル・ミス・ポーカー・フェース)という愛称で呼ばれた選手だった。

現在のようなミニ・スカートとは全く違う、膝下ほどの長さの白いプリーツ・スカートを履いてプレーしていた。フォアハンド・ストロークの強打を最大の武器にしたベースライン・プレーヤーである。

クリス・エバート

クリス・エバートは、アメリカ出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワは、チェコスロバキア出身の元女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算18勝はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。

1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年に1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。

2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。

おわりに

錦織選手がとあるインタビューで語った「私にはまだやりたいことがある。パフォーマンスが良ければチャンスがある」の重みのある一言。グランドスラムに向けてさらに頑張っていただきたいですね。

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